元気なジイさん 瀬戸内旅行
平成21年3月1日(日)晴れ
朝5時58分西船橋駅を出て、羽田発7時35分のANAで北九州空港へ飛んだ。
空港で井上さん、小倉駅で小山さんと合い、さらにJAL便の鈴木、斎藤両氏と
小倉駅で合流して関門海峡をレンタカーで渡った。
壇ノ浦から
昔の仲間は良いもんだ。同じ会社に勤めて、そばを愛し、歴史を愛し、旅をこよなく
愛する仲間が5人。やってきました古戦場。海の藻屑と消えし平家の公達、安徳帝の
無念を偲び、しばし悠久の時を心に刻む。
あの日から824年後の、この日の壇ノ浦は、ゆったりと平穏であった。
唐戸市場で外食
ところ変われば品変わる。こんんな食事は初めて。市場で好きなモノを買って、
外で食べる。寿司が最高にうまかったが、システムがわからず、
もっと食べたかったがあきらめた。でも、あきらめきれない。
また来てリベンジするだろうな。
赤間神宮
安徳帝を祀る赤間神宮。海底の都をイメージしているのだろうか。まるで竜宮城だ。
安徳天皇陵 拝殿前で
耳無し芳一の堂
盲目の琵琶法師。
夜な夜な平家の墓前に召され、
琵琶を奏で平家物語を謳ったという。
平家の墓
二位の尼平時子ほか知盛、教盛など
歴々たる公達が眠る。
800年の年月を思う。
今ぞ知る みもすそ川の流れには 水の下にも 都ありとは  二位の尼
文治元年(1185)3月24日、平家一門は安徳帝とともに壇ノ浦の海底に沈む。
語り部のようなオジサンが、紙芝居で決戦の模様を語っていた。

萩を散策
壇ノ浦をあとにして、長州毛利藩の本拠地 萩へ向かう。
明治維新の夜明けを告げる地だ。

東光寺
六地蔵と四爺
東光寺は毛利家の菩提寺である。奇数代の藩主の墓所だ。
この墓石の立派なこと。少しでもあやかりたい4人。

維新の志士たちの記憶
維新の胎動
吉田松陰の墓 高杉晋作の墓
2人の若き先駆者の墓。維新の大きな流れをこの2人が作ったことは間違いない。
維新を見ずして散った偉大な志士だ。松陰は安政6年(1859)10月、30才で刑死。
晋作は慶応3年(1867)5月27日肺結核で死去。27才の若さであった。

松下村塾
意外に小さいのでびっくり。吉田松陰のもとに、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、
山県有朋、前原一誠などが集まり天下を論じていたのだ。
昭和の志士たち
ちょっと見劣りしないでもないが、明治に生まれていれば博士か、大臣だ。
萩焼を買ってご満悦。
萩の町並み
萩の宿「常茂恵」
今日はふぐ料理。期待が高まる。その前に「ハイ、チーズ」
テッサの菊盛
たっぷり盛られた刺身。
酒もうまいし言うこと無し。

薩長同盟の地
坂本龍馬の仲介で、薩摩の田上藤七と
長州の久坂玄瑞が会合した地だという。
3月2日(月)晴れ
萩城趾
萩城は指月城と呼ばれる平城。昨夜のフグとうまい酒でご機嫌な4人。


津和野にて
長門の萩から石見の津和野へ入る。
津和野ではこのD51がお出迎え。少年に返る4人。
濁り酒の試飲にご機嫌。
鯉が多い町だ。
安野光雅美術館にて
津和野生まれの画家安野光雅は、絵本作家として世に出て、
挿絵、ポスターなど幅広い分野で活躍。国際的な評価が高い。
美術館の中の教室で。この空間も作品なのだろうか。後ろの習字も安野の作だという。


錦帯橋と岩国城をバックに
津和野から中国山脈を山越えして、岩国へ出た。お目当ては錦帯橋だ。
山の上のお城が見えるかな。

安芸の宮島
宮島口に車を置いて、フェリーで宮島へ渡る。今宵の宿はみや離宮
船から見る宮島。干潮なのが残念。 酒があればいいさ。牡蠣鍋もうまいし。
全員集合。乾杯!!(小山氏撮影、え!小山氏のカメラで撮影)
太鼓もあるでよ。 従業員の太鼓芸とは、、、お見事。

3月3日(火)雪
雪の厳島神社
雪の宮島もいいもんだなどと負け惜しみ。それにしても寒いのなんのって。
めげない4人。 五重塔の前で。(小山氏撮影)
千畳閣。強烈な寒さ。


ぜんざい食べよう。火鉢にあたろう。
広島平和公園
爆心地の模型。いつものことながら厳粛な気持ちになる。(小山氏撮影)
1945年8月6日、アメリカの爆撃機エノラゲイから投下された原爆リトルボーイは
午前8時16分、広島市上空で核爆発を起こし、約14万人が一瞬にして死亡した。
原爆ドーム
物産館の建物だった。
世界遺産だ。(小山氏撮影)

慰霊碑
安らかに眠って下さい。
過ちは繰り返しませんから。
数カ国語で書かれていた。(小山氏撮影)


大和記念館
なぜか火曜日が休み。鈴木さんががっかりしていた。(小山氏撮影)

竹原散歩
呉の大和ミュージアムが火曜日休日だったので、急遽予定を変更して竹原へ。
古い町並みを見て回る。機に臨んで変に応ずるは、我が仲間の真骨頂だ。

竹原は古くは京都下賀茂神社の荘園が置かれ、江戸時代には塩の産地として栄えた
歴史ある町で、安芸の小京都として風情のある町並みがよく保存されている。

尾道旅情
尾道での宿は千光寺山荘。千光寺公園の中にある眺めのいい宿だ。
上沼恵美子によく似た仲居さんと意気投合。この宿は料理もうまかった。

3月4日(水)曇り

尾道は坂の町である。町全体が急な斜面に貼り付いている。
病み上がりで足に自信がないので、尾道ではほとんどの観光をパスしてしまった。
この紀行記も、だから尾道は素通りである。福山の吉備津神社から始めよう。

素通りは愛想無しだから、小山氏撮影の尾道の写真を2枚貼り付ける。
千光寺にて
鼓岩にて
吉備津神社
公孫樹
天然記念物だ。
秋じゃないとただの枯れ木だな。
吉備津神社
備後一ノ宮。
本殿を直接拝する独特な様式。

古代の吉備国は、大化の改新後、備前、備中、備後、美作の4カ国に分割された。
美作国の一ノ宮は中山神社だが、他の3カ国の一ノ宮はすべて吉備津神社だ。
備中国の一ノ宮だけが延喜式内社だから、備前、備後の一ノ宮は、備中から分祀
されたものと思われる。

この備後国一ノ宮は、出雲の大国主命の招きに応ぜず、逆に出雲から派遣された
2人の使者を籠絡して隋~にしてしまった。だからこの神社には隋~門が2棟ある。
10月は全国の神様が出雲に参集するので、神無月と呼ばれるが、備後では、出雲
とともに神在月と称するのも面白い。

備後国は幕末の老中阿部正弘の治めた地で、畳表の産地として名高い。
明治維新後、吉備4カ国の内、この備後国だけが広島県とされ、他は岡山県と
された。

倉敷散策

江戸時代を通じて幕府直轄の天領であり、高梁川と瀬戸内海の水運の要所で、
商人達に自治を与えたことで商業都市として発展した。

倉敷市は岡山県第二の都市で、文化都市であると同時に日本有数の工業都市でもある。
倉敷紡績の創業家大原家は地元の大地主の出であり、昭和5年(1930)大原孫三郎が
日本最初の西洋美術を集めた大原美術館を開いた。

倉敷の大原別邸。みどり御殿だ。不思議な色遣い。
大原美術館 地酒が呼んでいる。
エルグレコ
倉敷の名店「el Greco」。有名な喫茶店。ツタの絡まる風情が旅情をそそる。
倉敷旅情。(小山氏撮影)

影向の松(不洗観音)
影向をようごうと読めるようになった。枝をいっぱいに広げた松は見事だ。


岡山の夜

今夜の宿は岡山の三井ガーデンホテルだ。最上階の大風呂が嬉しい。
市電で西大寺の郷土料理店さかぐちへ行き、よく食べ、よく飲み、よく話した。
最後に、ホテル近くのビッグエコーで、12時過ぎまでカラオケに興じたのも
楽しい思い出である。下の4点は小山氏撮影。
郷土料理さかぐち 兜煮。これはうまかった。
話が弾む。

わたしゃお前のそばがいい。

3月5日(木)晴れ
いよいよ最終日だ。天気は快晴。爽やかな気分で出発だ。
吉備津彦神社へ
備前国一ノ宮。吉備の中山を挟んで、備中の吉備津神社と隣り合わせだ。
夏至の日には朝日がまっすぐに神殿に入るので、朝日の宮と呼ばれる。
紅梅が満開できれいだった。

吉備津神社
比翼入母屋造りの社殿は迫力満点の国宝。吉備路にたくさんある吉備津神社だが、
延喜式に載っているのはこの宮だけだ。名神大社に列する。備中国一ノ宮。
温羅という鬼を退治した吉備津彦は桃太郎伝説の原型。この宮の主祭神である。
温羅の首を埋めたところに大釜を据えて、湯を沸かしている。
釜の鳴る音で吉凶を占すとか。

備中国分寺
備中国分寺は吉備路から見る五重塔が美しい。四季の花が彩りを添える。
この日は菜の花が満開だった。
五重塔を背景に、、
角力取山の大松
国分寺近くの角力取山の頂上に生える大松。

高松城趾
清水宗治の悲劇を詠んだ水攻音頭。いいね、こういうの。
浮き世をば 今こそ渡れ もののふの 名を高松の 苔に残して
清水宗治の辞世である。高松城本丸の跡に立つ。享年45才。

そばの「じくや」
岡山のそばの名店「じくや」。鴨せいろが大変うまかった。(小山氏撮影)

後楽園
後ろに烏城と呼ばれる岡山城が見える。水戸の偕楽園、金沢の兼六園と並ぶ
日本三名園のひとつである。
ぜんざいはうまいね。 満開の梅
満足、満足、大満足の瀬戸内旅行でした。
参加者名簿
ツアーコンダクター 
チーフドライバー兼カラオケ指南 
名木ガイド 
ドライブナビゲーター兼会計係

写真係              

小山
斎藤
鈴木
井上
小松
国府物語へ G1でオールドレンズを楽しむへ