4.下野国 東武伊勢崎線野州大塚駅  栃木県栃木市 1996.10.26 2003.01.03

下毛野朝臣古麻呂は下毛野国造の一族で、大宝元年(701)に制定された大宝律令の編者の
ひとりである。地方豪族の出身でありながら、藤原不比等の信任篤く、正四位下にのぼり、兵部卿、
式部卿を歴任した。東大寺、観世音寺と並ぶ三戒壇のひとつが野薬師寺に設置されたのも、
古麻呂の中央政界における政治力の影響であろうか。

その下野薬師寺に前法王太政大臣禅師道鏡が、位階をことごとく剥奪され、この寺の別当として
左遷されてきた。宝亀元年(770)八月のことであった。一介の修行僧から位人臣を極め、天皇位
まで狙った怪僧道鏡も、2年後の宝亀三年(772)四月失意のうちに、その波乱の生涯をこの地で
閉じた。



下野国庁跡(2003.01.03再取材)


下野国府跡の発掘調査は、昭和五一年(1976)から五八年(1983)まで栃木県教育委員会により
実施された。それにより古代の下野国庁が、ほぼその全貌を現し、昭和五四年(1979)には国指定
史跡に指定された。

下野国庁は8世紀前半から10世紀前半の間に、4期の変遷が認められる。

T期 8世紀前半から中頃まで(奈良時代前期)
    掘立柱建物で屋根は板又は檜皮で葺いた。
    政庁の区画は約90M四方。
U期 8世紀末まで(奈良時代後期)
    ほぼT期建物を踏襲。前殿が1棟となり
    前殿、脇殿は瓦葺きとなる。


V期 9世紀初めから中頃(平安時代初期)
    主要殿舎が礎石建物となり、周囲を区画する
    施設は掘立柱の板塀から築地塀に変わる。
W期 9世紀後半から10世紀初め(平安時代前期)
    前殿が無くなり、脇殿は再び掘立柱建物になる。


史跡公園になった下野国庁跡 南門から復元された前殿を望む


復元された前殿
U期の前殿を復元した。
東西24.9M南北8.3M高さ6.3M。
檜造り。
八葉複弁蓮華文の軒丸瓦、三重弧文の
軒平瓦、鬼瓦は出土品により復元した。


正殿があったと推定される宮野辺神社境内 脇殿跡は藤棚になっている


正殿が眠る宮野辺神社 古風な習俗を残す祭儀の説明板
氏子組織や神前の直会など民俗学的に
貴重だという。


国庁域は約90メートル四方で、築地で囲まれ、南正面からは幅9メートルの朱雀大路が延びて、
その左右に官衙や国司館が立ち並んでいた。しかし、京のように整然とした碁盤目状の街路は
認められない。役所や倉庫などは、政庁周辺に分散して存在していた。


下野国庁の推定図          (岩波書店「古代の役所」より)

史跡の北側に立派な資料館がある。


下野国総社(大神神社)

下野国の総社は、トヨタホームの栃木工場のすぐ近くにある。
大神(おおみわ)神社がそれである。
古くは下毛野と呼ばれたこのあたりに、豊城入彦命が大和から
三輪大社を勧請したのが始まりと伝えられている。
今から1800年前のことという。祭神は大物主神。


拝殿 本殿


参道 神楽殿



室の八嶋


大神神社の境内は古く「室の八嶋」と呼ばれ、不思議な煙が立ちのぼっていたことから、
「けぶりたつ室の八嶋」と詠まれ、東国の歌枕として都にも聞こえた名所であった。



また、俳聖松尾芭蕉も元禄2年(1689)にこの地を訪れ、

の句を残している。糸遊はカゲロウと読んで、クモの子供が糸に乗って飛んでゆく様を云うら
しい。 


室の八嶋
池の中に八つ島があるらしいが、今は
草木が生い茂っていて見えない。
芭蕉の句碑
糸遊の句碑。



下野国分寺跡2003.01.03取材)


思川というすてきな名前の川を渡ると、下都賀郡に入る。国分寺の跡は川を渡るとすぐである。
延喜式の寺料は4万束。大正10年(1921)国指定史跡に指定された。
寺院地の規模は東西413M、南北457Mであったことが確認されている。

下野国分寺の伽藍配置
南大門、中門、金堂、講堂を南北に配し、
中門、金堂を回廊で結び、東南に塔を
配する典型的な国分寺様式。


史跡公園として整備される計画とか 南大門跡から金堂方向を望む

中門跡の発掘現場 シートからのぞいていた古瓦?

金堂跡 講堂跡


下野薬師寺跡(2003.01.03取材)


天平宝字五年(761)筑紫観世音寺、下野薬師寺に戒壇を設ける。戒壇とは僧侶の資格
を認定する機関で、東大寺とともに三戒壇と呼ばれる。東国の僧侶は皆ここ下野薬師寺で、
戒律を受けなければならなかったのである。従ってその寺格は際だって高く、
続日本紀によると、嘉祥元年(848)に下野国司はその上申書の中で、
「体制巍々として、あたかも七大寺の如く、資材また巨多なり。」とその偉容を誇っている。

道鏡幻夢

和泉国弓削の里(今の八尾市)に生まれた道鏡は、東大寺に入り修行を積んだ。

聖武天皇の第一皇女
阿倍内親王は、女性として初めて皇太子となった。女帝はこれ
までにも例がないわけではない。推古、皇極、持統、元明、元正帝は女帝である。
しかし、いずれも適任者が居ない時の代役としての登極で、皇太子ではなかった。
天平勝宝元年(749)聖武天皇は譲位し、阿倍内親王は孝謙天皇となる。
天平宝字二年(758)淳仁天皇即位。彼女は
孝謙上皇となる。

天平宝字五年(761)
孝謙上皇は近江国保良宮に、静養に向かわれた。気鬱の病
を癒すためだった。上皇の従兄弟にあたる太政大臣
藤原仲麻呂(恵美押勝)は近江
国守を兼ねていたし、保良宮に別邸もあった。琵琶湖を望む景勝の地であったらし
い。

孝謙上皇は淳仁天皇に譲位されてから5年、45歳になられていた。保良宮に移ら
れても、上皇の病はいっこうに快方に向かわない。東大寺から看病禅師が迎えられ
た。それが
道鏡であった。道鏡はこの時おそらく50歳ぐらいと思われる。

上皇の病間に招かれた道鏡は、まず心を鎮める香を焚き、静かに読経を始めた。
道鏡の声は低く、しかし澄んだ声で朗々と響き、上皇はしばし恍惚の時を過ごした。
おそれながらと道鏡は床を滑って上皇に近づくと、その玉体を柔らかく撫でさすっ
た。上皇はうっとりと身をゆだねられる。10月のけだるい時間が流れていった。

孝謙上皇は道鏡を愛した。彼が小僧都から大臣禅師に登るまでに1年とかからなか
った。権力の危機を感じた太政大臣藤原仲麻呂と淳仁天皇は、上皇を諫めた。
しかし、逆に仲麻呂は退けられ、乱を起こして自滅する。天平宝字六年(764)
のことであった。淳仁天皇も廃され、上皇は再び位につき
称徳天皇となる。

翌年、道鏡は
太政大臣禅師、翌天平神護二年(766)には法王にまで登りつめる。
3年後神護景雲三年(769)運命の
宇佐神宮神託事件が起こる。道鏡を天皇にし
ようという、日本の歴史始まって以来、まさに前代未聞の大事件であった。

翌宝亀元年(770)八月称徳天皇が53歳の若さで崩御。即時道鏡は
造下野薬師
別当として、流罪同然に左遷される。2年後の宝亀三年(772)四月道鏡は失
意のうちに、この地で死去。一介の修行僧道鏡が一天万乗の君孝謙上皇に会ってか
ら、九年間の夢まぼろしのような月日であった。

孝謙上皇・弓削道鏡の名誉回復
(道鏡は、上記のような女犯戒を犯した僧ではなかったという最近の学説を、河内国に載せました。)

下野薬師寺跡
国指定史跡だ。
下野薬師寺の伽藍配置

安国寺境内にあった薬師寺の礎石 薬師寺塔跡

薬師寺戒壇跡に建つ六角堂
鑑真和上の画像を納めた厨子と
不動明王、韋駄天像などが安置
されている。
江戸後期の建物
礎石、柱、屋根まで全て正六角形という
珍しい建物。

講堂の発掘現場
建物は間口33.6M 奥行き15M。
奈良薬師寺の講堂とほぼ同規模である。
復元された回廊建物と回廊跡

現安国寺山門
足利尊氏が全国に安国寺を作るに当たり
下野国分寺をそれに当て、改称させた。
薬師寺金堂はこのあたりに眠っている。
安国寺本堂
元亀元年(1570)小田原北条氏の戦火に
より焼失。現在は真言宗の寺で薬師如来を
本尊とする。


薬師寺八幡社
薬師寺の境内にあったと思われる。
貞観十七年(875)京都石清水八幡を
勧請したという。
金精様
八幡宮の東側の小さな祠に祀られている。
左が八幡神の、右が道鏡の金精だという。
うーん、、、、、


二荒山神社(下野国一之宮)


この神社はフタアラヤマとお呼びする。日光にあるもう一つの二荒山神社は、フタラサンだ。
日光の方は仏僧によって開かれ、輪王寺、東照宮とセットで隆盛を極めるが、こちらは一度
指定された国幣中社を、日光側の異議によって県社に引き下ろされた苦い過去を持つ。
10年後に国幣中社に復活するが、その故か日光の同名の神社との違いに固執する。

祭神は崇神天皇の皇子の豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)。国造下毛野氏の祖神である。
一方の日光の神社は、出雲神大己貴命(おおなむちのみこと)をはじめとする三柱の神を、
二荒山大神として祀る。延喜式には下野国河内郡二荒山神社として、名神大社に列するが、
それがいずれの神社を指しているのか確定していない。

さて、こちらの二荒山神社は、宇都宮市の市名の由来となっている。なぜ宇都宮か諸説ある。
最初、現在も下社がある荒尾崎に祀られ、次いで今の社がある臼が峰に遷座したという。
臼の宮が宇都宮となったという説が、私は一番納得できる。このほか、一之宮が東北なまりで
とか、移った宮だからだとか、現(うつつ)の宮からだとか、いろいろ云われている。

拝殿 本殿


女体神社 鳥居と石段


宇都宮名物餃子


宇都宮といえば餃子だ。2004年6月11日清水和親氏の案内で、二荒山神社近くのスーパー
の地下にある「来らっせ」という店に入った。この店では市内の有名店の餃子を注文できる。
居ながらにして餃子名店巡りが出来る便利な店だ。

宇都宮餃子「来らっせ」
長崎屋の地下にある。
清水氏も満足の様子。
7種の餃子
市内の有名店の餃子。
それぞれの特徴があって美味しい。


下野国地図



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